時系列を読み解く時に
昔の人はこうしてああしてそうしてやってきたって軌跡が割と大雑把な年表尽くめで書かれてるから読みやすいけど、
例えば俺みたいな一般人はどうだろうと考える。
産まれた時、初めてハイハイした時、おたふく風邪を引いて夜中病院をたらいまわしにされた時・・・etc.
よくよく考えるといちいち細かい事を書かないと気が済まなくなって収拾が付かなくなると思う。
もっとも、誰かしらに恩や仇の一つも持ったり、持たれたりしていれば、これ以上ない位の冒険譚というか、
独立した伝を立ててそいつの事ばっか書いて年表はどうした?って完全脱線決め込んで200ページ位書いてるだろうね。
そうなればもはや年表とか時系列とかそんな事些細な事だと思って終いには自分が書きたかった事ばかりが書かれていって
年表的な重要性がどこかへ飛んで行ってしまってるかもしれない。
そう思うと自分の年表を書くのって実は一番難しくてしんどい事だろうと思えてならない。
文句なら自分でなく、自分をそうさせたソイツに言ってくれと責任転嫁して脱線した箇所を無理やり修正して話の筋に戻す作業をやると思う。
そうして出来た年表は多分、三国志とか戦国時代の有名武将や君主の様に人間味溢れた壮絶人生を知らしめてると思えてならないが、
はっきり言って雑なので年表としての価値は寸分もないだろうと思う。
自分の年表を書いてみてこれだと思う事を列挙して重要だと思う物を10個位にしてみて書きだしていくと良いよと勧めてくれる人がいたとしても
多分思いの外長丁場してて書きたい事を書きまくって整合性が取れてないままに完成する未来が透けて見える。
自覚してるのは自分の無計画さとその場凌ぎという点で、そこらをどうすれば解消できるかを何となく俯瞰できる位置にまで持って行き、眺める段階になると途端に年表を書く気が失せているという事になるのは明白だろう。
何せ自分の伝記を書く訳じゃなくてただ、年表を書くだけの作業なのに、その作業をやるには伝記めいたものを書かないと先へ進まないというジレンマに脅かされて筆が、手が止まってしまいがちになるのだろう。
思えば、自分の自著伝なるものを書いたことがないから、他人の目を気にしながら物事を書いていくとどうしても他者から見て・・・という内容になるのは確実だ。
例えば、女の子それも10代半ばの美少女と中出しセクロスをしたい!と思ってても世間的にはアウトだからと内容を修正して20歳以上の女子大生とかとお近付きになりたい云々を書いてぼやかすのと同じ理屈だと言える。
結局のところ、他者からよく見られたい願望が渦巻いて結果的に犯罪じみた事が書けなくなる病で以って年表が構成されていくのだろうと思うと、やるせない気持ちの一方で自身の残虐性を他者の目を気にする事で抑えられるのなら、これほど有難い事はないと考えるだろう。
何せ自分の年表は後世沢山の人の目に触れられる可能性があるからだ。
思った通りの事は書けない。
普通はそうなんだろう。
かの三国志の作者陳寿でさえ、当時の政権批判となる皇帝弑殺のエピソードにはあまり批判的でなかったという事もある。史記の作者司馬遷だってそうだ。漢の武帝の横暴を批判した史書は彼の死後ようやく人の目に触れたというのだから、少なくとも自分にとって都合の良いが相手には都合の悪い内容の年表ないし伝記をソイツが存命中に出すのは、アレだと考えたに違いない。
同様に自身も存命中ならば、どこそこの政治団体に批判的だのヤクザは嫌いだのと書かない方が無難なんだろうと思う。
というか、そういう話は自分の火の粉が掛からない程度なら書いても問題はないと思われるが例えば、ジャーナリストの黒木昭雄の様に核心に迫ったり、911の時にユダヤの犯行だとするイルミナティを発したNHKの解説委員の様に何らかの原因で殺される、あるいは自殺した事にされるような大きな事件やニュースに関わらない限りは恐らく何を書いても大丈夫だろうと思う事にしている。
それよりも自分に興味のある事をどんどん発信していく方がよっぽどタメになりそうな気がしてきた。
若い少女が好きです!とかよりも妊娠出来ない身体になると興味を失います程度ならきっと誰もが許してくれそう、そんな話題を提供出来たらきっと素敵な年表あるいは伝記が完成しそうな気がしてきた。
事件としては問題だけど、俺も偉かったらプチエンジェル事件の被害者少女たちとイチャコラしたかったなと書くのも自由だと思うけど、多分こういうのは悪ふざけと言われるっぽいので書かない方が無難だ。
心の中に締まっておくか墓場まで持っていくのが良い。ないしは、伝記にちらっと仄めかす程度で十分そいつはロリコンだと信じるられるような気がする。
しかしながら、年表には普通そういう下世話な事や事件問題等は書かない方が良いとされる。
何故なら長いからだ。
決して人間味あふれる事への批判ではなく、恐らく年表というのは自分自身に直接かかわりのある事しか書かない方が良いのだろう。年表に余計な事を書くとそういう人間なんだ、へーと年表以外の部分に触れさせても良い事はないのだ。
ともかく、俺はロリコンではないけど、ロリ顔で巨乳が良いのだと言っておっぱい星人を名乗っておく方が恐らく被害は最小限に抑えられるだろうという事にしておきたい。
決して某南海キャンディーズのブサ眼鏡よろしくフィリピンやベトナムで未成年少女と淫行しまくるような事はしない。やってしまうと自称御意見番の岡村隆史に根掘り葉掘り批判されて嫌われるだけなので、ああいうのとは寧ろ仲良くしておいた方が良いと誰かが囁いてる気がする。
そんな事よりも俺が俺である事を示すための年表を書くのが賢明なので、決してフィリピンとかで未成年買春する事を肯定してはいけない事はそれとなく書いておくと、ソイツは如何に人間的に出来た奴なんだろうと勘違いさせられる事請け合いだ。
喩え、政治資金規正法に思いっ切り引っ掛かっててお金にグレーだ真黒だと言われようとクリーンな政治を心掛けますと訴えればバカな都民や府民が皆自分に投票してくれる、そんな強かな人間になっても年表には“金に汚い人物だった”と書かれるよりはマシかもしれない。←何に対して?
そんなこんなで自分が自分であるというアイデンティティーをそれとなく年表に書いておけば、プロフィール以外で自分がこういう人間だと示す事が出来ると感じたものの、考えてみると筆者はまだ30少し手前で停滞しているのだ。
まだ人生50年には届いてない。
まだ年表を書く時ではないと思いつつも備忘録がてら書いておきたい事はとりあえずカレンダーにでも印を付けて合った事にしておきたいなと今日この頃。